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東京高等裁判所 平成11年(ネ)3350号 判決

控訴人(被告) 社団法人公開経営指導協会

右代表者理事 A

右訴訟代理人弁護士 山﨑克之

被控訴人(原告) 三菱信託銀行株式会社

右代表者代表取締役 B

右代理人支配人 C

右訴訟代理人弁護士 池田靖

同 桑島英美

同 矢嶋髙慶

同 竹村葉子

同 蓑毛良和

同 相羽利昭

同 田川淳一

主文

一  原判決を取り消す。

二  被控訴人の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、第一、二審を通じ、被控訴人の負担とする。

事実及び理由

第一控訴の趣旨

主文同旨

第二被控訴人の請求(当審における請求減縮後のもの)

一  控訴人は、被控訴人に対し、金一八〇万一四八六円及びこれに対する平成一〇年一一月一〇日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。右支払は、供託の方法によらなければならない。

二  仮執行宣言

第三事案の概要

一  本件は、被控訴人が株式会社ワールド・ベル(平成七年一一月二四日付け変更前の商号はベル興産株式会社。以下、商号変更の前後を通じ、「ワールト・ベル」という。)との間の銀行取引等に基づく債権を担保するため同社所有の建物につき設定した根抵当権に基づき、同社から右建物を賃借の上控訴人に転貸している株式会社ベル・アンド・ウイング(以下「ベル・アンド・ウイング」という。)が控訴人に対して有する賃料債権につき、物上代位による差押えを申し立て、右差押命令送達の日以降に弁済期が到来するものから四億六〇〇〇万円に満つるまでの部分についてこれを差し押さえる旨の差押命令を得、平成一〇年六月二九日、同差押命令が控訴人に送達されたことから、同年七月分から同年九月分までの各賃料合計二七〇万二二二九円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成一〇年一一月一〇日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金について、差押え競合により供託の方法によって支払うことを求めた取立訴訟である。

これに対し、控訴人は、右転貸借契約において転貸人に預け渡している保証金の返還請求権を自働債権とする相殺ないし相殺予約の合意により賃料支払義務はないと主張して争った。

原審裁判所は、右保証金返還請求権は、右差押命令送達後に右転貸借契約の終了による明渡しによって発生した債権であるから、控訴人は、これを自働債権とする相殺をもって被控訴人に対抗することはできず、相殺予約の合意も認められないとして、被控訴人の請求を認容した。

そこで、これを不服とする控訴人が控訴し、当審において、敷金が授受されている賃貸借においては、いったんは支払期に発生した賃料債権であっても、そのまま常に必ず存続し続けるものではなく、建物明渡時に当然に敷金から控除されて消滅するものであり、本件の差押えに係る賃料債権は、控訴人が転貸借終了後に転借建物から退去したことにより、当然に保証金から控除されて消滅したとの新たな主張を追加した。また、被控訴人は、当審において、差押命令送達前に弁済期が到来していた平成一〇年七月分の賃料の請求を取り下げる旨の請求の減縮をした。

二  前提となる事実

1  被控訴人の取立権

(一) 被控訴人は、ワールド・ベル所有の原判決別紙物件目録記載の建物(以下「本件建物」という。)につき昭和五九年二月一五日に設定された債務者をワールド・ベルとし、被担保債権の範囲を銀行取引、手形債権、小切手債権、賃貸借取引、売買取引とし、極度額を五〇億円とする根抵当権に係る物上代位に基づき、ワールド・ベルに対する原判決別紙債権目録記載の各債権を含む債権を請求債権とし、ワールド・ベルを債務者兼所有者とし、同社から本件建物を賃借してその一部を控訴人に転貸したベル・アンド・ウイングを賃借人兼転貸人とし、控訴人を第三債務者として、ベル・アンド・ウイングが控訴人に対して有する賃料債権のうち差押命令送達の日以降弁済期が到来するものから四億六〇〇〇万円に満つるまでの部分について差押命令を申し立て(甲一、弁論の全趣旨)、平成一〇年六月二五日、その旨の差押命令(以下「本件差押命令」という。)を受けた(争いがない)。

(二) 本件差押命令の正本は、平成一〇年六月二九日、控訴人に送達された(争いがない)。

2  ベル・アンド・ウイングの控訴人に対する賃料債権の発生原因等

(一) ベル・アンド・ウイングは、ワールド・ベルから賃借した本件建物のうち三階部分床面積一六二・〇五平方メートル(以下「本件建物部分」という。)につき、平成五年八月一一日、控訴人に対し、次の約定により転貸し(以下「本件賃貸借契約」という。)、これを引き渡した(乙五、弁論の全趣旨)

(1) 賃料は一か月一〇〇万九八一二円とし、毎月二五日限りその翌月分をベル・アンド・ウイングに対し支払う。

(2) 期間は、平成五年九月一日から平成七年八月三一日までとする。

(3) 保証金は、一〇〇〇万円とし、その二〇パーセントに相当する金額を「契約終了金」とする。

(4) ベル・アンド・ウイング又は控訴人は、本件賃貸借契約の解約を申し入れることができ、その場合には、本件賃貸借契約は、解約申入れの後六か月が経過したときに終了する。

(二) 控訴人は、ベル・アンド・ウイングに対し、本件賃貸借契約において約定された一〇〇〇万円の保証金(以下「本件保証金」という。)を預け渡した(弁論の全趣旨)。

(三) 本件賃貸借契約は、平成七年九月一日から平成九年八月三一日まで、同年九月一日から平成一一年八月三一日までの各期間について、順次合意により更新され(乙五、六、弁論の全趣旨)、現在の賃料は一か月九〇万〇七四三円となっている(争いがない)。

3  本件賃貸借契約の解約と本件建物部分の明渡し

控訴人は、平成一〇年三月三〇日、ベル・アンド・ウイングに対し、同年九月三〇日をもって本件賃貸借契約を解約する旨を通知し、同日限り本件建物部分から退去した(乙七、弁論の全趣旨)。

4  本件保証金返還請求権による相殺の意思表示

控訴人は、平成一〇年一〇月八日、ベル・アンド・ウイングに対し、本件保証金返還請求権を自働債権とし、本件建物部分の同年四月分から同年九月分までの賃料債権を受働債権として、相殺する旨の意思表示をした(乙一一の1、2)。

三  争点

1  本件賃貸借契約に基づく未払賃料は、控訴人が本件賃貸借契約終了後に本件建物部分から退去したことにより、当然に本件保証金から控除され消滅したといえるか。

2  控訴人とベル・アンド・ウイングは、本件差押命令が控訴人に送達される前の平成一〇年三月下旬ころ、同年九月末に本件建物部分から退去した同年一〇月以降において賃料債権と本件保証金返還請求権を相殺する旨の合意をしたか。

3  控訴人は、前記相殺の意思表示をもって、被控訴人に対抗することができるか。

4  本件差押命令に基づいて被控訴人が取立権を有する賃料債権は何月分から何月分までか。

第四当裁判所の判断

一  まず争点1について判断する。

1  争点1に係る当事者双方の主張は以下のとおりである。

(一) 控訴人の主張

最高裁昭和四八年二月二日第二小法廷判決(民集二七巻一号八〇頁)が判示しているように、「家屋賃貸借における敷金は、賃貸借存続中の賃料債権のみならず、賃貸借終了後家屋明渡義務履行までに生ずる賃料相当損害金の債権その他賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得することのあるべき一切の債権を担保し、賃貸借終了後、家屋明渡がなされた時において、それまでに生じた右の一切の被担保債権を控除しなお残額があることを条件として、その残額につき敷金返還請求権が発生する」のであって、差し入れた敷金全額について敷金返還請求権がいったん発生し、ついで未払賃料等と相殺される関係ではない。すなわち、相殺を待つまでもなく、未払賃料等が当然に差引控除された後、その残額について敷金返還請求権が発生するのである。

本件差押命令は、差押命令送達日以降支払期が到来する賃料債権についてなされた。賃料債権は、建物使用の対価として支払期に具体的に発生するのであるから、差押当時は未だ具体的な賃料債権は発生していない。賃借人が建物を明け渡してしまえば、いくら差押命令があっても、明渡以降の賃料債権が発生しないことは多言を要しない。それと同様に、敷金が授受されている賃貸借においては、いったんは支払期に発生した賃料債権であっても、そのまま常に必ず存続し続けるものではなく、建物明渡時には、敷金によって当然に充当され消滅するのであって、敷金が授受されている場合の賃料債権は、敷金で清算される性質のものとして存在しているにすぎないのである。

右のように将来の賃料債権を差し押さえた場合に敷金が授受されていると、差押債権者が実際にどれだけ取立てできるかは、賃借建物を明け渡すかどうかという賃借人の動向によって左右されるのである。その差押が一般債権者のものであれ、物上代位によるものであれ、理は全く同じでである。なぜならば、差し押さえられた債権の内容、効力の範囲如何に帰す問題であるからである。

また、控訴人が本件差押命令送達後に賃料を不払としたことは何ら非難されるべきことではない。本件差押命令によって、賃貸人の資力不足、信用不安が明らかになったのであるから、それ以前に差し入れた多額の敷金を確実に回収する方策として、賃料を不払にして賃借建物を使用する挙に出ることは当然の自衛策であって、毫も非難される行動ではない。

(二) 被控訴人の主張

敷金の法的性質については、最高裁昭和四八年二月二日第二小法廷判決の判示のとおり、「賃貸借終了後家屋明渡義務履行までに生ずる賃料相当損害金の債権その他賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得することのあるべき一切の債権を担保」するものであるが、この最高裁判決が前提としているのは、賃貸人が賃借人に対し、賃貸借契約に基づいて賃料等の請求権を有し、自ら回収できないという通常の事態である。

本件において、ベル・アンド・ウイングは、平成一〇年六月二九日の本件差押命令の送達によって、債務者として、右送達日以降は、控訴人に対する債権の取立てその他権利の存在・内容に影響を与える一切の行為を禁止されているのであって、その後の賃料債権については「賃貸人が賃借人に対して取得することのあるべき一切の債権」に該当しない。

ベル・アンド・ウイングと控訴人との間の本件賃貸借契約によると、ベル・アンド・ウイングは賃貸借契約が終了し明渡完了後六か月以内に未払費用を精算し、差額を控訴人に返還すべきこととされている(本件賃貸借契約六条八)。この規定は、ベル・アンド・ウイングが請求しうる費用を差し引くことを前提としていることは明瞭である。右規定は、本件差押命令の送達によってベル・アンド・ウイングが「請求しうる費用」の趣旨に当然に変更されているのである。

控訴人は、敷金について「建物明渡時に未払賃料等は当然に控除される」と主張するが、控除する主体はベル・アンド・ウイングであり(本件賃貸借契約六条八)、同社に控除する根拠がない以上、控訴人の主張は失当である。

2  そこで検討するに、本件保証金は、本件賃貸借契約に基づく借主(控訴人)の債務を担保するため授受されたものであって、契約終了の際、貸主(ベル・アンド・ウイング)は、保証金総額から契約終了金を差し引き、さらに借主において未払費用がある場合はこれを差し引いた残額を返還するものとされており(乙六の六条)、これが敷金の性質を有するものであることは、当事者間に争いがない。

ところで、敷金については、賃貸借存続中の賃料債権のみならず、賃貸借終了後家屋明渡義務履行までに生ずる賃料相当損害金の債権その他賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得することのあるべき一切の債権を担保し、賃貸借終了後、家屋明渡がなされた時において、それまでに生じた右の一切の被担保債権を控除しなお残額があることを条件として、その残額につき敷金返還請求権が発生するものと解すべきである(最高裁昭和四八年二月二日第二小法廷判決・民集二七巻一号八〇頁参照)。すなわち、敷金返還請求権は、相殺のような当事者の意思表示を必要とすることなく、賃貸借終了明渡時における延滞賃料等の借主の債務と当然に差引計算がされて、残額について発生するのである。このことは、賃料債権が第三者に譲渡された場合にも当てはまることであって、賃料債権の譲受人が弁済を受ける前に賃貸借が終了し家屋明渡がされたときは、その賃料は当然に敷金から控除される結果、譲受人が譲り受けた賃料債権はその限度で消滅すると解される(大審院昭和一〇年二月一二日判決・民集一四巻三号二〇四頁参照)。したがって、敷金の授受がある場合の賃料債権は、第三者から見れば、将来敷金によって差引計算されて消滅するに至る危険性の伴うものといわなければならない。

このように敷金の授受がある場合の賃料債権がそもそも右のような危険性を有するものである以上、これを差し押さえた場合であっても、債権譲渡の場合と同様に、差押債権者が取立てないし転付命令に基づく弁済を受ける前に賃貸借が終了し、明渡がされたときは、その賃料は当然に敷金から控除される結果、差押えに係る債権は消滅すると解さざるを得ないものというべきである。

被控訴人は、差押えの処分禁止効により、債権譲渡の場合とは別異に解すべきである旨主張するようであるが、右の敷金からの当然控除による賃料債権の消滅は、敷金の授受がある場合の賃料債権の性質論から導かれるものであり、その消滅が差押債務者の処分行為によるものと解することはできないから、差押えの処分禁止効によって、差押えの場合と債権譲渡の場合とで異なった結論を導くことはできない。

また、被控訴人は、敷金が賃貸借終了後家屋明渡義務履行までに賃貸借契約により賃貸人が賃借人に対して取得することのあるべき一切の債権を担保するものであるが、差押命令送達後の賃料債権は、賃貸人が賃借人に対して取得する債権には該当せず、敷金から控除されることはないと主張する。しかし、差押命令送達後であっても、転付命令がなければ、賃料債権の帰属主体はあくまで賃貸人であって、差押命令送達後の賃料債権について、賃貸人が賃借人に対して取得する債権に該当しないと解することはできない。

3  そうすると、被控訴人が請求する平成一〇年八月分及び同年九月分の賃料債権は、控訴人が同年九月三〇日をもって本件賃貸借契約を解約し、同日限りで本件建物部分から退去したことにより、二〇パーセントの契約終了金を控除してもなお八〇〇万円の残金がある本件保証金から当然に控除され消滅したものと認めることができる。

二  以上によれば、その余の争点について判断するまでもなく、被控訴人の請求は理由がない。

第五結論

よって、被控訴人の請求は理由がないから、これと異なる原判決を取り消し、その請求を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 原健三郎 裁判官 橋本昌純 岩井伸晃)

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